内外点描
内外点描
日常生活の中で発見したこと、感じたことをつれづれに綴っています。
◆内外点描(2008年~2011年)の内容は、2012年6月より、新しい記事が一番上に来ます。
19.その後のにんじんの芽 2013.12.24(火)記 (新着!)
ちょうど3週間前(12/03)、種から育てたにんじんの新芽を紹介しました。
その新芽が、育ち、今は次のようになりました。
長さが約3cm程に成長しました。しかも密生して発芽しています。
●現在(12/24)のにんじんの新芽
●3週間前(12/03)のにんじんの新芽
18.にんじんの新芽 2013.12.03(火)記
この地は、九州南部地方だ。
にんじんの種をまいたのが11月中旬の初め頃だった。
にんじんの種の入っている袋には、種をまく時期は遅くても
10月下旬から11月の初め頃と書かれていた。
種をまくには少し時期が遅れてしまったが、一か八かで、庭の
片隅にある2畳ほどの面積の小さな畑に、にんじんの種をまいた。
深くやわらかく耕した土に2列各1.5mの長さの筋を引き、
そこに種をパラパラと筋状にまいた。
乾燥状態のままでは発芽しないから、土を湿らしておくために、
毎日、水掛けをした。
発芽の状態を知るために、一週間ほどは毎日何回も様子を見に
行って観察した。
しかし、何の変化も全然なかった。
11月の下旬ごろ、寒く感じられる日々が続いたので、
にんじんの発芽に悪影響を及ぼすといけないと思い、
にんじんの種の蒔かれた土全体を覆うために、
透明なビニールカバーを、手つくりで作った。
それから一週間ほどして、発芽の状態を覗いて見たら、
なんと2~3mmほど伸びた小さな双葉が密生していた。
しかし、日のあたる部分だけしか発芽していない。
日当たりの良くない部分は
まだ発芽の気配が感じられない・・。
半分は残念な気持ちだが、しかし、
残りの半分は「やったー!」
といううれしい気持ちに満たされていた。
建物の影になった、日当たりの悪い所の発芽状態は
決して良くはないけど、
発芽の可能性は0ではないので、
これからも毎日祈り心で見守って行こう。
やがて、
種から蒔いて大きく育った
にんじん達の立派な姿が
食卓に現れるその日を楽しみにしながら、
にんじん達の成長とともに、
生き生きと過ごして行こう。
17.朝の覚醒前夢啓示3 2013.03.10(日)記
今朝目覚めたのは、4時30分だった。
私が夢から覚醒したその直前の夢の中の出来事は、
私と妻が、会場に集まった人々が注目している舞台の後ろにある控え室で、
ハラハラしながら迎えていた「出し物の劇」の出番がまさにやってきたその瞬間であった。
夢の中での時間をこの時点より遡れば、
夢の始まりは、集まった多くの人たちが夫婦2人で出し物の劇をするという状況であった。
私たち夫婦の出番は不明確であるが5~6番目頃であっただろうか。
最初の出番の人の劇を見ている時は、胸がどきどきして落ち着かなかった。
2番目の人の劇を見ている時はその光景は夢のように過ぎ、頭に入らず、ソワソワした気持ちだった。
自分たちは「どんな劇をすればいいのかなー!?」と思い煩うことで精一杯だった。
何も思い浮かばないまま、時間だけが虚しく過ぎて行った。
みんなスムーズに良くやっているなーと感心しながら、
でも自分たちは何をすればいいのか、全く構想が浮かばず、ただ混乱していた。
やっと浮かんでくる唯一のイメージは、劇の最初の場面のみであった。
その最初の場面のイメージは、
「私が、ぐうたらに寝ころんで、新聞や雑誌を見ている時、妻が
掃除機で部屋の掃除を始めるという場面」だった。
なぜかそれだけはスムーズに浮かんできたのだが・・・。
しかし、その後の展開は全く思いつかないまま、あれやこれや漠然とした思いで時間だけが空しく過ぎていった。
そして遂に私たちの出番の2つ前のグループの出番がやってきた。
その時、私たちは舞台裏の控え室の隣と思われる別室にいたのだが、その時になってもまだ劇の筋書きは全く見えてきてはいなかった。
もう絶対絶命の状況に陥っていた。どんな筋書きにすればいいのか・・・???、
直前になっても、霞がかかったように朦朧としたまま、全くアイディアが浮かんでこないのだ。
その時、私はもう半分、破れかぶれの気持ちになっていた。
「こうなったら、もう出たとこ勝負だ・・・!」
「その場任せのアドリブで行くしかない。もー、なったごっつだー!」と、
開き直った気持ちになっていたのだが、でも心のどこかでは、何とか筋書きをまとめようと必死だった。
しかし、ついに、恐れていた私たちの出番がやってきた。
もう観念だ。覚悟を決めた!! 出たとこ勝負だー!!
その直後に、突然、私は夢から目が覚めたのだ。
目が覚めた後、今の夢のことを思い出しながらトイレに行った。
トイレの中で、今の夢は何だー?と、自問自答した。
私はあの夢の中で、劇のあらすじを全く構想できずに悶えた。
唯、漠然としたまま、時間だけが過ぎて行き、最初の場面のイメージしか思いつかなかった。
あの後、私たちはどうなったのだろうか??
と、そのことを思っていたら、ふと私の頭の中でひらめきが起こった。
「ああそうだー!!、あのときの呼びかけは、自分ひとりだけが劇のあらすじを作り上げるのではなく、夫婦が一つになって、どんなに厳しい試練や問題に対しても、夫婦が一つになって取り組んで行くこと、一人で解決の道を模索するのではなく、夫婦二人で知恵を出し合って、ともに努力していくことであったのだということに思いが至りました。」
そして劇のあらすじは、「起・承・転・結」の流れに沿って、二人で構想を練っていけば良かったのだー!」と。
今、やっと、その道筋が見えてきたのだった。
夢から覚醒した今の現実の世界で、
夢の続きの劇の構想を、夫婦二人が一つになって、具体的に生きていくのは、
今、この時である、と私は気づかされた思いである。
16.朝の覚醒前夢啓示2 2012.12.13(木)記
今朝5時08分に起床した。
今朝も5:00の携帯アラームの音を聞きながら、夢から覚めた。
今朝の具体的な夢のイメージは次のようなものであった。
ジグザグと複雑に湾曲して曲がりくねり、
大きな輪を描いて一周している模型の鉄道線路の上に、
多数の車両を連結した列車があった。
私はその一周している線路の輪の中央にいて、
列車を右手で上から掴んでいた。
列車を、複雑な曲線を描きながら一周している線路の上から脱線させないように、
スムーズに早く動かす練習をしていた。
しかし列車は線路のカーブに差し掛かるとすぐに脱線した。
一周して出発点にたどり着くまでには、数十回と言わず、脱線した。
しかものろのろとスロー運行だ。
私の目標は、
このジグザグと複雑に曲線を描きながら一周している線路の上を、
スムーズに新幹線並みの猛スピードで、なめらかに一周も2周も、
いや任意の回数、脱線させずに列車を走らせることだった。
一見不可能に思えるこのことを目標にして、数限りなく夢中になって
練習を繰り返している自分があった。
夢中になって、失敗をものともせずに練習を続けていた。
そして、あっという間に時間は過ぎ去って行った様に思えた。
やがてふと気がつくと、なんと、私の右手で動かしていた列車はいつの間にか、
スムーズに意のままのスピードで、意のままの回数、複雑に曲がりくねった
このジグザグ線路の上をなめらかに走っているではないか!
私は列車を無意識に動かしながら、脱線させずに、スムーズに
猛スピードで走らせている自分自身と列車に気づいた。
周囲から多くの人々の歓声と感動の声が「オオーッ!!」と
どよめいているのが聞こえた。
私は満たされた充足感を味わいながら、列車を魔法のように、
新幹線並みの猛スピードで、複雑に曲がりくねったこの線路の上を
なめらかにスムーズに走らせていた。
今朝の覚醒前夢啓示は、次のようなものであると思った。
''好きで、本気で「こうなりたい」と願うことにチャレンジして、努力し、
練習し続けていれば、いつの間にか、その願いは達成され、自らの心は
充足感に満ち、人々は感動を覚える。''
15.朝の覚醒前夢啓示1 2012.12.12(水) 記
今朝、5時15分に起床した。
昨夜、寝る前に、5時に携帯アラームを設定しておいた。
今朝5時に携帯アラームがなったときは夢の中であった。
それから15分後の、
5時15分に起床した瞬間は、夢の半分程は断片的に覚えていたのだが、
起きて動き出した時はもう繋がりや脈絡が全く思い出せなかった。
しかし全体的なイメージだけは残っていたので、
すぐ机の前に座って、頭にスッと浮かんできた今の夢の呼びかけをメモした。
その夢が私に伝えていることは、次のようなものであったと思う。
「たとえ99.99%以上、不可能だと思われることでも、
自ら深く必死に心の底から願うものであれば、
人知を尽くして、誠心誠意努力すれば、
総力を挙げてベストを尽くせば、
人知を超えていける。
願いは必ず達成できる。
しかも、疲れることなく元気はつらつと、
そして生き生きと、それは当然のごとく遂行され得る。
傍目から見ると「本当に辛く大変なことだよなー」
と思われることでも、
びっくりするような信じられない事柄であっても、
まるで奇跡のごとく、
当の本人は、生き生きと元気に動き、
さわやかな喜びに溢れている。
以上のような内容であったと思う。
この夢の啓示は私を励ますものであることには間違いない。
私はよく朝の覚醒時に「啓示!」と思える様な夢を見る。
14. 人それぞれに 2012.11.29(木) 記
人間であれば、例外なくみんな、人それぞれの喜怒哀楽を抱えるでしょう。
また、人間は一人では生きていけません。
「私は誰のお世話にもならず、立派に一人で生きているよ」と言いたい人もいるかと思います。
しかし、はたして本当に誰のお世話にもならずに一人で生きていけるのでしょうか?
ひとり暮らしだから一人で生きているわけではありませんよね。
毎日食べる食事ひとつとっても、多くの人のお世話になっています。
「ご飯と味噌汁と焼魚」が昼食の内容だとしたら、その昼食にどれだけ多くの人のお世話になっていることでしょうか。
コメを作った人、炊飯器を作った人、炊飯器を発明した人、電気関係に携わっている人、味噌汁の味噌の原料である大豆を作った人、大豆で味噌を作った人、魚をとった漁師さん、そして魚やさん、・・・。
病気になれば、医療関係の人たち、病院の施設、薬、・・・・、もう数え上げればきりがありません。
だから、私たちはどんな人も、たったのひとりでは生きていけないのです。
見えがかり上は、一人で生きているように見えても、その背景に「目に見えない多くの繋がりがある」ということを忘れてはなりません。
私たちはみんな、相互に作用し合って、お互いに関わり合って、どこかで誰かの役に立っているし、どこかの誰かさんのお世話になっているのです。
かくのごとく、一人一人には、みんなそれぞれに「その人だからこそできる果たすべき仕事(=使命)」があります。
もし、病気になれば、自由に動き回ることもできず、仕事を力いっぱいすることなどできません。人からしてもらうだけの立場になります。
自分から積極的に仕事をしようとしても、病気という強い条件と制約が生じてきて、十分な働きができません。
だから、私たちは、健康な時こそ、日々、その健康を維持増進し続けることが極めて重要なことであり、大切なことなのですね。
13. 己こそ己の寄る辺 2012.10.27(土)記
『己こそ己の寄る辺、己を置きて誰に寄るべぞ、良く整えし己こそ、まこと得難き寄る辺なり』
この言葉の意味を私は次のように考えている。
自分の心の畑は自分が良く耕して整えていくものである。そうすることによって自分の心の畑に栄養豊かな美味しい野菜や果物が育つ。
人はその人自身が自分の心の畑をよく耕していくものである。自分の心の畑を耕さずして、人の心の畑を耕すものではない。
また、人から耕してもらうものでもないし、人に依存することでもない。
しかし実際世の中には、自分のことを棚に上げて、人に指図したり、人に指示して人を育てているのだと勘違いをしている人がいかに多いことか。(私自身も・・・)
そしてまた、人を自分の手足のように、思うように動かそうと一生懸命になっている人がいかに多いことか。(これも私自身を含む)
自分の畑の隣に他人の畑が有り、見渡す限り、自分の畑以外の畑は全て他人の畑である。他人の畑を耕そうとしても、所詮自分の畑が耕されていなければ、自分の畑は雑草や竹が生い茂り荒野と化してしまう。
このような状態では、いつまでたっても自分の心の畑は豊かにならない。
そのうち飢えて死んでしまうだろう。
己の畑は他人が真に耕せるものではない。自分が耕さなければ、いつまでたっても荒野のままである。
よく耕してよく整えた自分の心の畑は、豊かな実りを与えてくれる。
そしてそれはますます健康と元気と喜びを与えてくれる。
人の畑のみに目が移り、自分の心の畑を放置していては、いつまでも一向に豊かにならない。
他人から耕してもらってもそれは真に自らの糧にはならない。
ただもらうだけの幸せである。
重要なことは自らの心の畑を心を尽くしてひたすら真に耕すことである。
豊かになった己の心をもって、請われた、必要と思われる人の畑のお手伝いをしよう。
そのような相互扶助は素晴らしいことであり、喜ばしいことであり、望ましいことである。
まことに、自分の自己確立を果たした己こそが唯一無二の頼れる存在である。
いつまでも他人に依存していては、いつまでも本当の幸せを得られるものではない。
人にはその人自身だからこそできる事、その人自身の唯一のはたらきと使命というものがある。
自分にも自分でないと成し得ない、自分だからこそできる唯一の自分のはたらきと使命がある。
よく磨かれた自分自身こそ本当に得難い宝である。
12. 効果的な学習法 2012.6.5(火)記
何か独学で勉強したいものがあって、それをマスターしたいと思うときがあります。そんなとき、参考書、教科書、技術書など、テキストを利用して勉強を始めます。
わくわく感と希望を持って最初は意気込んで一生懸命に取り組んで学んで行きます。
しかしその内だんだん難解な言葉や、書いてある説明がよく理解できない箇所に出くわします。
そんな時は、いろいろ他の資料やインターネットで言葉の意味や具体的な内容を調べたりします。
おおかたその作業でたくさんのことが解決されていきますが、しかしそれでも解決できずにすっきりしない時もあります。
そのような事が度重なってくると、次第に意欲も減退していきます。モチベーションが下がってきますよね。
「それをどう解決するか」について、長年の体験を経た今、私は一つの解決策を考えました。
(すでに多くの人が体験していることとは思いますが、私にとっては大きな確信的な自己発見なのです。)
・或る一冊の教科書や参考書や技術書をマスターしたい時、
まず最初は教科書や参考書を最初から(興味のあるところからでもいいですが)勉強を、とにかく一通り、全体をさらっていきます。目を通して学んでいきます。
どんな知識や技術があるのか全体像を把握していくためにです。
途中で難解なところがあっても構わずに、どんどん突き進んで毎日、勉強を欠かさずにして行きます。
「あー、難しいなー!良く理解できないなー!おれはダメだなー!」などと言って嘆かず、わかる努力を一生懸命してもわからないならわからないままでいいから、適当な所で打ち切って(未解決の所だけを跳ばして)、次に進んでいきましょう。
そのようにして、最後まで一通りおさらいがすんだら、その教科書を本棚に戻して、1週間は全く手に取らずに教科書のことは忘れて、他の好きなことをやってください。
1週間後に、再びその教科書を本棚から取り出して、二回目の勉強をしていきます。
全く一回目の時と同じようなスタイルで勉強をして行きます。
勉強していて気付くことは、一回目の時とは違って、学びの速度や理解のスピードが2倍くらい速くなっている事に気付くでしょう。
さらに不思議なことには、一回目の時に、あれほど苦しんで理解困難だったことが、二回目の時には不思議と簡単に理解できることに気付きます。
どんどん二回目の勉強を毎日ページを順番に追って勉強していきます。やっぱり再び理解困難なところや覚え難い所に出くわしますが、一生懸命に理解の努力をしてもわからなければ、気にせず適当なところで打ち切って、次の項目に進んで行きましょう。
そのようにして、教科書または参考書を最後のページまで全部勉強していきます。これで二回目の勉強は終わりです。
再び、その教科書を本棚に戻し、一週間ほどはタッチせず、関係のない他のことをしましょう。
一週間後に、三回目の勉強をスタートします。
勉強の仕方は、一回目の時と同じように、最初から順番に学んでいきましょう。
三回目の勉強ともなれば、二回目までの勉強でもうすでに覚えていることや理解済みのこともあり、更に学びのスピードは上がっています。
一回目の時に比べたら、およそその5倍ほどのスピードで、教科書を学んでいくことができる事を知ります。
例えば、一回目の時3ヶ月かかって全部をすませたのだったら、三回目の時は約一ヶ月足らずで全部をすませることができるというわけです。勿論、個人差はあるでしょうけどね。
しかも学びの中心は、今まで理解できなかったことにターゲットが絞られて、その問題解決に集中できることと思います。
そして、ハッと閃いて、あっさりと理解できることもあります。何で今までこれに気付かなかったんだろうとか、ああー、そうか、そうだったのかと言った風に、理解困難であきらめかけていたことが、あっさりと解決する事があります。
それでもまだ、未解決の問題や、学ぶことが残っているのであれば、今までの様に、四回目にチャレンジして行けばいいのです。
必ず最後には全てをマスターできます。
意欲と根性で頑張ってください。
マスター速度は、意欲と根性次第です。
あなたの不断の精進を祈っております。